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【感想】幡野広志さんの本「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を読んで。

りょーこ
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【感想】幡野広志さんの本「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を読んで。
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りょーこ
「ぼっち愉楽と私の戯言」の運営者です。 ぼっち愉楽(ゆらく)と私の戯言(ざれごと)は、マンガ、本、日本ドラマ、邦画、カフェ、旅などを狭く深く愉しむメディアです。

 

わたしは幡野さんのつむぐ言葉がすきです。
写真家としての作品よりも先に、Twitterで彼をしった。

長年、わたしを苦しめてきた罪悪感、しこりのようなものを溶かしてくれたのが「彼の言葉」でした。

わたしが「幡野広志さん」に興味を持ったのは
「元狩猟家」だからでも「写真家」だからでもない。
彼が発する「言葉」に惹かれたのがはじめのきっかけだ。

ひととは違う、こじらせた考え方をしてしまうところがあるわたし。
「冷たい」と家族に言われることもあるけれど、一応わたしなりに罪悪感を感じてはいるのだ。

幡野さんの文章に触れていると「こんな自分でもいいんだな」と、安心する。
そして、救われる。

TwitterやNOTEなどのインターネットの中で幡野さんを追ううちに、
彼の言葉だけじゃなく「日常を切りとる幡野さんの写真」のファンに結局はなるのだけど。

 

「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる」
幡野さんのウルトラかわいい息子‘‘優くん‘‘にあてた‘‘優しいお便り‘‘

干渉する優しさは時に虐待で、「見守る優しさこそが本当の優しさ」だと教えてくれる一冊だ。

 

 

「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」の内容。

 

ガン(多発性骨髄腫)で余命宣告を受けた35歳の父、幡野広志さん。
2歳の愛する息子、優くんに伝えたい大切なことがつづられている。

この本は、お父さんから息子への手紙だ。
愛するかわいい息子さん「優くん」へのお手紙だから、語り口がとにかく優しい。

4章から構成されている本。

 

【目次】

  • 第1章 優しさについて、ぼくが息子に伝えたいこと
  • 第2章 孤独と友だちについて、息子に学んでほしいこと
  • 第3章 夢と仕事とお金について、息子に教えておきたいこと
  • 第4章 生と死について、いつか息子と話したいこと

 

自分の考えを道しるべのように振りかざして息子を誘導したりしたら、息子の邪魔になる。

だから、優くん本人が、自分で道をつくり、自分で歩いていく中でふと立ち止まったときに、
遠くからぼんやり見える灯台くらいの言葉を残したいという想いから、ウェブで発信しはじめたのが、最初のキッカケ。

 

それが反響を呼び、取材を受けるようになって、Twitterで悩み相談を受けるようになった。
それらの「困りごと」に答えるうちに、近くの家族より遠くの他人に本当の自分を見せるのかもしれない。
だったら息子のための言葉はちょっと距離のある方がいい。
さらに息子のための言葉が、悩みを抱えるひとの役に立ってくれたら嬉しい。

ひとには言葉というのが必要だ。

こうした思いの延長で幡野さんが書いた一冊だ。

 

「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」の感想。

 

この本の中には「優しい虐待」という表現がたびたび出てきます。

「善意」や「優しさ」が人を傷つけることもあるということを教えてくれる。

もちろん、その「善意」や「優しさ」をありがたく受け取るひともいるだろうし、ひとによって感じ方は違うだろう。
ただ、私は幡野さんのその価値観にとても共感した。

ガン患者になったことで感じたこともつづられているが、幡野さんはずっと一貫している。
ガン患者としてではなく、一人の男として、父親として書かれている本だと感じた。

「ガン患者」「父親」におすすめというわけではない。

「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」は、人間関係に悩みを持っている方におすすめ。
家族・友人・同僚との距離の取り方に悩んでいる方たち読んで頂きたい一冊だ。

自分が良かれと思ってやっていることが、実は迷惑かもしれない。
見守ること、待つことが本当の優しさだと教えてくれる本。
人間関係に悩んでいるあなたへ。
一度立ち止まって考えるには、うってつけの一冊だ。

 

「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」の著者「写真家幡野広志」さんとは?

 

幡野広志さん(@hatanohiroshi)は「元狩猟家」であり「写真家」
35歳。
多発性骨髄腫というガンで、余命3年と告知されている。
優しい奥様と、優くんという2歳の歳の息子さんがいる。

私が知っている彼の情報はこの程度だった。

インターネットで彼の言葉を読むうちに、ファンになってしまったのだけど、
簡単に言葉では言い表せない感性のひと。

「考えるひと」という印象が強い。
わたし自身も「考えるひと」だからこそ、なんだか惹かれてしまう。

 

幡野さんを知るには、彼のprofileよりも「幡野広志さんのNOTE」と糸井重里さんとの対談「ほぼ日刊トイ新聞」を是非読んでみてほしい。

 

 

「優しい写真」幡野広志作品展 in 銀座

 

先日、といっても11月のことだけど、幡野広志さんの「優しい写真」という名の作品展へ行ってきた。

 

幡野広志さんの本「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を読んで。

「優しい写真」幡野広志作品展

いい写真ってなんだろうとずっと考えていた。

伝えたい人に、伝えたいことが伝わる写真が、いい写真の一つなのだと、
最近になってようやく、ぼくなりの答えをだすことができた。

最近なにがあったかというと、ガンになった。
あと数年は生きられるけど、治る見込みはない。

こういうことを言うと、奇跡がおきると励ましてくる人がいるけど、
1%の希望に目を向けるなら、どうじに99%のリスクを受け入れたほうがいい。

ぼくには2歳の優(ゆう)という名前のウルトラかわいい息子がいる。
息子は父親の記憶がほとんどない人生を歩んでいくことになる可能性が高い。
だけどそれは可哀想なことでも不幸なことでもない。
ぼくも息子も与えられた条件のなかで生きているだけだ。

ただ、息子にはぼくの気持ちが伝わってほしい。
けっして優くんのことが嫌いでお父さんはいなくなったわけじゃない。

ぼくは息子のことを愛していた事実を伝えるために、写真を撮っている。
君に伝えたい、ただそれだけだ。

ちゃんと伝わるだろうか。
すこし心配だけど死んだあとの心配をしても仕方ないし、
きっと妻がうまくフォローしてくれる。

どういう仕組みなのかよくわからないけど、
カメラのシャッターを押すと一瞬で写真として記憶される。
いい写真の答えを出すのがすこし遅かった気もするけど、
間に合わなかったわけじゃない。死ぬちょくぜんまで写真は撮れる。
写真を撮る人生を選んでよかったとおもうけど、
きっと違う人生を選んでいても良かったと感じているとおもう。
健康なときよりも充実した日々を過ごしている。
生きていて、本当に良かったと思う。

「優しい写真」幡野広志作品展より引用

 

幡野広志作品展

優しい奥様と、ウルトラかわいい息子優くんを残していかなければならない、どうしようもなさに涙が溢れてしまった1枚の写真。

その下につづられた幡野さんの言葉が切ない。


数日前、ぼくのからだにガンがあることがわかった
落ち葉まみれになってあそぶ二人が、
ぼくのいない世界で生きているように感じた

「優しい写真」幡野広志作品展より引用

 

奥様が切り取ったという、家族の日常。
幡野さんは奥様が撮る写真が好きだそうだ。

写真家の作品展に飾られる、写真家ではない奥様が撮った写真。
幡野さんのそういうところも好きだ。
写真家としての変なプライドよりも、優しい写真をただ見てほしいという想いで展示しているところ。好き。

 

「優しい写真」幡野広志作品展

 

愛おしく息子を見つめる幡野さんがたまらなく切ない。
そして、とてもあたたかい親子の写真。

 

そして、こちらの写真。
何か不自然さを感じませんか?

 

 

 

普通だったら、直したくなっちゃうはずなのに、逆さなのままにして楽しんじゃうところも、好き。

 

【感想】幡野広志さんの本「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を読んで。

 

 

帰り道に幡野広志さんの著書「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を手に取った。

 

【感想】幡野広志さんの本「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を読んで。

 

「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」

おこがましい言い方だが、わたしはこの本のタイトルを読んだだけで、幡野さんが伝えたいことのいろいろを理解した。

タイトルだけを拾うと、親が読むための本に思える。
でも、けっしてそんなことはない。
家族や、知人、友人との丁度いい距離感の取り方や、「善意」や「優しさ」がひとを傷つけることもあると教えてくれる。

世の中には「余計なお世話」が溢れているが、悪意なんかではなく、それらは紛れもなく「善意」と「優しさ」なのだ。
でも、幡野さんはそれらを「優しい虐待」と表現する。

優しい虐待。
もっと、この言葉が新しい価値観として、概念として世の中に広まればいい。

 

末期ガンであることがまわりに知られるにつれ、僕にはたくさんの「優しい手」がさしのべられた。
「とにかく安静に。最新の治療をして、1日でも長く生きてほしい」
親や親戚といった身内の優しさは、おおむねこんなところだ。
その治療がどんなに過酷で、残りの日々をベッドでしか過ごせないとしても、「とにかく長く生きのびる」ことが大事らしい。

中略

友人、知人からの「優しい手」は善意であることがわかるだけに始末が悪い。僕はに困った。

ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。’から引用 P26

 

 

善意のアドバイスを無視すれば途端に生意気な患者となり、悪者になってしまう。
僕が死んだあとに妻と息子が「○○をやっていれば、助かったかもしれないのに」と、言葉の暴力をぶつけられる可能性もあるだろう。

`ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。‘から引用 P27

 

 

僕が出した結論は、根拠なきアドバイスは「優しい虐待」であるということだった。

中略

優しさのかたちをしているけれど、結果として苦しめるのなら、それは相手を残酷に取り扱うのと同じこと。つまり「優しい虐待」なのだ。

`ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。‘から引用 P28~P29

 

自分は優しいと思っているひとこそ、知らず知らずのうちに誰かを傷つけているかもしれない。
ひととの距離感を間違えているかもしれない。

そういった「ひと」との向き合い方、距離の取り方について考えさせられる一冊だった。

 

まとめ|「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」にある救い

 

幡野さんはとても考えるひと。わたしも考えるひと。

価値観が近くて、こういう風に育てられたら、わたしの暗黒時代の10代をもっと楽に生きられただろうな、こういうお父さんが欲しかったなと感じた。

幡野さんの言葉は、わたしみたいな人間にとってたくさんの救いがある。
わたしはけっして冷たい人間ではないのだと思えたし、幡野さんや奥様のように優しくて強いひとになりたいと改めて思ったのだ。

「優しい虐待」という表現がしっくりきたのであれば、是非読んでみてほしい。
干渉する優しさは時に虐待で、「見守る優しさこそが本当の優しさ」だと教えてくれる一冊。

 

 

 

 

 

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